会合があった数日後――。秋の陽だまりが心地よい午後、私は一人で椿京の新区にある中央街を歩いていた。一人での外出にも、椿京の街にもだいぶ慣れてきたと思う。最初のうちは、華が酷く心配して行き先を尋ねてきたけれど、最近ではそれほど不安な様子を見せない。
「華さん、少し街まで出てきますが、買い物など必要なものはありますか?」
「いえ、買い物でしたら、私や他の誰かに行かせますので――」
「せっかくですから。何かお役に立てるようでしたら、お手伝いをさせてください」
「そうですか? でしたら……新区の『
「先日、立ち寄った漢方薬と茶葉のお店ですね」
「ええ、どちらもそろそろ切れそうなので。品物はあちらにすべて用意しておいてもらうよう、頼んでおきますので」
特別なことでなくても、私に出来ることがあるということが、朝霞家の一員でいられるような気持ちになる。
新区の大通りを一本裏通りに入ると、途端に人通りが少なくなる。それは嫌な雰囲気ではなく、古くから続く独特なゆったりとした雰囲気だ。
表通りに並ぶ雑貨店や洋風の商店のように、煌びやかではないけれど、古めかしい小さな商店は、どこも温かい雰囲気を醸し出している。 私は最初に、瑞草堂へ立ち寄った。「ごめんくださいませ」
声を掛けると、すぐに店主が出てきた。
「これは……朝霞の奥様。玉依華様より、伺っております。今日はお一人で?」
「はい。いつもお世話になっております」
「いえいえ、少々、お待ちくださいませ」
店主は丸顔の四十代くらいの男性で、人の良さそうな笑顔を見せると、奥へと消えていく。私は待っている間、店内を眺めていた。漢方の香りが漂う店内に並べられた商品棚には、見覚えのある名前の袋が陳列している。その時、ガラリと扉が開き、店主と同年代くらいの痩身の女性が袋を抱えて入ってきた。
「ああ、もういらっしゃっていたのですねぇ!」
私の顔を見るな
夕暮れの空が朱に染まる頃、華は朝霞邸の自室で煙管を手に、深いため息をついていた。 鈴凪が家を出てから三日が過ぎた。その日のうちに戻ると思っていたのに、一体、どこへ行ってしまったのか。朧月会に囚われてしまったのかと思い、探ってみるも、朧月会の方でも鈴凪を探しているらしいことが見て取れて、ほっとしていた。とはいえども、まだ戻らないのが心配だ。 理玖は理玖で、鈴凪がいなくなった日から様子がおかしい。食事は喉を通らず、仕事もすべて屋敷に持ち込んでも手つかずのまま。まるで魂が抜けたような有様だった。そして何より、一日に何度も鈴凪の部屋の前を素通りしては、襖を見つめて立ち尽くしている姿を見かけるのだ。 二人の間に何かがあったことは確実だけれど、一体、何があったと言うのか。すっかり腑抜けた理玖からは、まだ何も聞けていない。「このままでは、両方とも不幸になるばかりですね……」 華は煙管を置くと、決然と立ち上がった。理玖に無断で行動を起こすのは越権行為かもしれない。だが、あの二人を見ていると、誰かが背中を押してやらねば、永遠にすれ違いを続けてしまうだろう。「旦那様、少し街まで用事に出て参ります」 書斎の前で声をかけると、中から力のない返事が聞こえた。華は小さく首を振り、足早で裏庭へ向かった。「要さん」 華は裏庭で庭石に腰をおろしている桐山要に声を掛けた。黒い作務衣の裾に雑草の種がついているところを見ると、草むしりでもしていたのだろうか。要は天狗の末裔で、華と同様に朝霞家では古株の一人だ。「なんだい、華さんか。どうかしたのか?」「どうもこうも……旦那様がねぇ……」「ああ、奥様が出て行かれてしまったから、かね」
慎吾と別れた私は、椿京を出て実家へと向かった。 朝霞邸に戻る勇気がまだ持てず、一人で考える時間が必要だった。椿京から少し離れた実家にたどり着いたのは、日付も変わった深夜だった。 実家は小さく、質素だったが、温かみのある家だった。両親は既に他界し、追われてこの家を出てから、今は空き家同然になっていたが、私にとっては心の支えとなる場所だった。 久しぶりに足を踏み入れた家の中は、静寂に包まれていた。埃っぽい空気の中に、かすかに母の使っていた香の匂いが残っている。僅かに残っていた荷物の中から手拭いを出すと、近くの井戸で足を洗った。「足が痛い……」 私は自分の部屋に入り、そこで一人、座り込んだ。 畳の感触が、幼い頃の記憶を呼び起こす。 この部屋で、どれほど多くの夜を過ごしただろう。母の読み聞かせを聞いた夜、将来への夢を語り合った夜、そして仕事が決まった時の逸る気持ちを抱えて眠りについた夜……。「私は、どうしたいのだろう」 膝を抱えて呟いた。 慎吾の温かさも、理玖への複雑な想いも、すべてが心の中で絡み合っていた。答えを見つけるために実家に来たのに、一人になると余計に混乱が深まった。 やがて疲労に勝てず、私はそのまま眠りに落ちた。 夢の中で、私は桜舞い散る神社にいた。 狐燈坂の上にある小さな神社。石段を上がった先にある、椿京の街を見下ろす静かな場所。桜の花びらが風に舞い、まるで雪のように地面に舞い落ちている。 そこに、一人の女性が立っていた。 黒髪を風に揺らし、白い着物に身を包んだ美しい女性。その横顔は確かに私に似ていたが、どこか大人びて、深い憂いを湛えていた。 百合の姿だった。『あなたが……鈴凪さんですね』 百合は振り返って微笑ん
公園のベンチで時を過ごしていた私の元に、見慣れた人影が現れた。「鈴凪さん」 振り返ると、慎吾が心配そうな表情で立っていた。いつもの穏やかな笑顔はなく、眉間に深い皺を寄せている。「慎吾さん……どうしてここに」「朝霞邸の方が、君を探していると聞いて」 慎吾は私の隣に座った。「こんな早い時間に、一人でこんな所にいるなんて。どうしたのです?」 私は俯いた。慎吾の優しい声が、かえって胸を苦しくさせた。「何かあったのですか? 顔色が悪いし、泣いていたようだ」 慎吾は静かに問いかけてくる。 私は慎吾を見上げた。その温かな目を見ていると、すべてを打ち明けたい衝動に駆られた。けれど、理玖のことや妖の世界のことは、とても話せるものではなかった。例え慎吾が朧月会で、理玖を妖だと知っていたとしても。「朝霞様と……少し、言い争いをしてしまって」 私は曖昧に答えた。嘘ではなかったが、真実からは程遠かった。「言い争い?」 慎吾の表情が険しくなった。「朝霞が君に何をしたのですか」「いえ、朝霞様が悪いわけでは……」 私は慌てて首を振ったが、慎吾の表情は晴れなかった。「君はいつもそうだった……自分を責めて、相手を庇う。でも、君がこんなに苦しんでいるのを、僕は黙って見ていられません」 慎吾は私
書斎で夜を明かした理玖は、外が明るくなったことに気づいてようやく顔を上げた。一睡もしていない目は赤く、疲労で霞んでいる。「鈴凪……」 彼女の名前を呟くと、胸が締め付けられた。さっきの会話を何度も思い返しても、もっと上手く説明できたのではないかという後悔ばかりが残る。『本当の私を愛してくれる人は、いるのでしょうか』 鈴凪の問いかけは、彼女自身に向けられたもののようだった。中庭に立つその姿は、まるで霧の中に立つ迷子のように、頼りなく見えた。『一度でもいいから、朝霞様が私自身を見てくれたことがあったのですか』 あの時――理玖は何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。間違いなく鈴凪を見ていた。ただ、百合の面影が浮かんでいたのも事実だ。 その事実を、どう言葉にすれば良かったのか。それが分からない。 自分の過去が、今の幸せを壊してしまう皮肉を感じていた。説明すればするほど、鈴凪を傷つけてしまう。この状況を、どう修復すればよいのか見当もつかなかった。 二人の間に横たわる溝は、想像以上に深かった。「もう、手遅れだろうか……」 理玖がつぶやいた言葉は、朝の静寂の中に重く響いた。 書斎を出ると、慌てた様子の華が駆け寄ってきた。「旦那様、たった今、奥様がお屋敷を出ていかれました」 華の言葉に理玖は愕然とした。あれからまだ数時間だというのに、まさか、こんなにも早く理玖から離れてしまうなどと、考えてもみなかった。「そうか……」「散歩に出ると仰っていま
部屋に戻った私は、畳の上に崩れ落ちた。 涙が止まらなかった。理玖の告白、妖としての正体、そして百合という女性の存在――すべてが心の中で渦を巻いていた。「私は……私は一体、何なの」 私は膝を抱えて震えていた。自分というものが、まるで霧のように曖昧に感じられた。朝霞鈴凪として生きてきた数カ月間は、すべて偽りの上に築かれたものだったのか。理玖の優しさも、穏やかな日々も、私が理玖を慕う気持ちさえも――すべてが百合という女性の影に過ぎなかったのだろうか。 私がただの、生まれ変わりだから――?「ただの代替品……」 私は誰かの身代わりとして選ばれ、愛されていたという事実が、私の存在そのものを否定されたような気持ちにさせた。頼れる人のいない、たった一人だった時の寂しさよりも辛かった。 窓の外で、白み始めた空が明るさを増していた。けれど、私の心の中は、深い闇に覆われたままだった。 気がつくと、私は僅かな荷物を手に部屋を出ていた。足は自然と屋敷の外へ向かって行く。契約結婚とはいえ、理玖の妻として過ごした日々が、今の私には重すぎて辛い。 草履を履き玄関を開く音が、静寂の中で妙に大きく響いた。「奥様? こんな早くからどちらへ行かれるのです?」 華の声が背後から聞こえたが、私は振り返らなかった。「少し……散歩に出ます」 それだけ言って、私は屋敷を出た。 振り返ると、薄暗い屋敷の奥で、書斎の明かりがまだ灯っていた。あの部屋で、理玖は一人、何を考えているのだろうか。 門を出て数歩、歩いたところで私は振り返った。朝霞邸の大きな屋根が、靄の中にぼんやりと浮かん
私は溢れる涙が止まらないまま、抑えきれない感情をすべて口にした。「最初は契約結婚だと思っていました。お互いに割り切った関係で、一年で終わるものだと。それなら、私も心の準備ができました。でも、これは違います。私は最初から私として見られていなかった。朝霞様にとって私は、失った恋人の代替品でしかなかった」「鈴凪、それは誤解だ」 理玖は否定するけれど、つい今しがた、身代わりかと聞いた私にはっきりと『そうだ』と答えた。それは誤解などではない、理玖の本当の思いじゃないのだろうか。「誤解?」 私は振り返り、涙を流しながらも毅然として見えるように、しっかりと理玖を見つめた。「では、聞かせてください。朝霞様が私の名前を呼んでくださる時、傷つけたくないと仰ってくださった時、優しい言葉をかけてくださった時、本当に私を見ていたのですか」 私の問いかけに、理玖は答えなかった。空を見つめる目は、どこか遠くを見ているように感じる。「答えてください。一度でもいいから、朝霞様が私自身を見てくれたことがあったのですか」 理玖は苦しげに目を閉じた。一言も発することなく、ただ俯いている。「なかった……ということなのですね……」 私は理玖の沈黙を答えとして受け取った。空はもう明け方近く、わずかに白み始めている。結局、一睡もできないままで、私は心だけでなく体も疲弊していた。「鈴凪……」「私は、百合様ではありません。私は鈴凪という、どこにでもいる普通の女です。美しくもなければ、特別な才能があるわけでもない。ただ、少しばかり頑固で、思ったことをそのまま口にしてしまう、そんな女です」